【矢野 裕久】 yano hirohisa
DUCATIと
葉巻と
モルトウィスキー

矢野裕久
 は13号地の前の環七を朱色のDUCATIに乗って風のように去って行く…。どんなに朝まで飲んでいようと、どんなに疲れていようとそのスピードが落ちることはない。何度、13号地からDUCATIに乗った姿を見送っただろうか、バイク便をやっているのだから心配無用…?ある日山手通りですれ違ったことがある、ビックリした、彼は片手をポケットに突込み、もう片方の手でステレオイヤーホンを直しながらバイクを運転してた。その時のバイクはセローで、大きな身体の矢野裕久は曲芸のくまのようだとニンマリしたが、彼の運転がいつも心配だった。

矢野裕久 は糟等位輔(そうらただすけ)と言うもう一つの名前を持っている。大きな身体に透きとおる色白の顔に鼻の下ともみあげからあごにかけ髭をはやし、葉巻(いつもはモアだった)をくわえウィスキーのストレートを
チビリチビリ飲む姿は、まるでハードボイルドの小説に出てくる人物のようだ。父親とフィリピンに暮らしたこともあり、マフィア通の彼は糟等位輔(そうらただすけ)の名でハードボイルド小説を休むことなく書き続けていた。一冊の小説が書き終わると、買い置きのモルトウィスキーの瓶の封を切るのを何よりも楽しみにしていた。

矢野裕久
 は寡黙だ。嬉しそうに13号地のメンバーの話や相談に乗ってくれる。だから私達は彼の事を少ししか知らない。二三度ぐらい、他界したご両親のことや、フィリピンにいる弟さんや、お嫁に行った妹さんの話を聞いた。とても嬉しそうに話してくれた、弟さんや妹さんと事情があって会えないと聞いたが…、本当はご家族にいつも逢いたかったんだよね?


13号地の
活動中止中…

矢野裕久
さんは2005年10月4日、アパートの布団の中でお亡くなりになったのを発見されました。死後1ヶ月経っていたそうです、死因は病死でした。折りしも10月4日は彼の誕生日でした。(私たちはそれすらも知りませんでした。)

矢野裕久さんは13号地旗揚げからずーと13号地第6回公演『月が消えた夜に』まで公演のVTRを撮り続けてくれました。その編集は素晴しく、まずタイトルに13号地のロゴ型に切った磁石を使って、白い紙の上を砂鉄が舞い磁石に集まって13号地のロゴになっていくと言うものでした。バックの音楽も素晴しく、矢野さんが選びに選んで作ってくれたであろうことを想像できました。キャスティングやスタッフ名の表示の仕方もとてもセンスがいいのです。13号地のVTRを観るたびに私達は矢野さんのことを考えます。本当に感謝してます。と同時に私達は今は亡き矢野さんに何か助けになるようなことが出来なかったのか?…と後悔してしまいます。

2005年10月4日、刑事さんから電話があり彼の死を告げられました。志村警察署に駆けつけ、9月の頭に亡くなったこと、5年前から病気で病院通いをしていたこと、バイク便の会社はとっくに無くなっていて警備会社に勤めていたこと、部屋はきちんと片付けられていて住所録には加藤一也と成行ミチ子と蒔本彩乃(13号地第4回公演「ジプシーな夜になれ!」出演で矢野さんのバイク便仲間の女優でした。)の連絡先だけが書かれていたこと、自慢の朱色のDUCATIやハードボイルド小説は見つからなかったこと、テーブルの上にはモルトウィスキーと一本の吸い終わった葉巻の入った灰皿があったこと…、を知りました。

2000年8月第6回公演『月が消えた夜に』の後、しばらくして矢野さんは13号地の全てのVTRのマスターを持って稽古場に現れました。バイク便の配達の途中だったので届けてくれてすぐ帰ったのですが、なぜ全てのマスターテープなのか?また彼の顔がなぜか悲しそうに見えたのか?…、今は想像ですが、病気が発覚した後ではなかったのか?…あれが彼の顔を見る最後になってしまい、…なぜあの時無理にでも矢野さんともっと話をしなかったか…。

13号地の活動中止中(2000年8月から2006年4月)の5年間はあまりにも長すぎました。経済的理由にくわえ、成行の身体不調からでした。その間、矢野さんがいつも送ってくれていたクリスマスカードは、3枚で途絶えました。その時は「あれっ?」と思いましたが、第7回公演が決まっており、公演の稽古に入れば「矢野さんと逢えるっ!」と稽古を楽しみにしていました…。

2005年9月に入って、「鳥たちのかくれ処」の稽古ももうすぐだ!という時、成行は心身不調から「もうバイクは乗らないだろうな…」と思い2002年頃売ってしまっていたのですが、突然無償にバイクに乗りたくて仕方がなく、中古のホンダ・ディグリーを買いました。…もしかしたら、他界した矢野さんが自分の死を知らせたくって、成行にバイクを買わせたのかも…と思っています。
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